この注口土器は喜田貞吉氏が1928年に報告して以来、様々な媒体で引用・紹介されている有名な土器です。喜田の報告は発見者である国後島作喜小学校長の近江正一氏からの情報に基づいていて、東沸村字ポンキナシリ、作喜小学校裏の崖上で1928年7月7日に発見されたという情報が記載されています。博物場で行われたと考えられる土器への注記には「近江」「P23」とあるのみですが、発見者による情報に基づく採集情報で登録されています。この土器を引用する報告でもおおむね上述の採集情報が記載されており、資料情報そのものについては混乱はみられません。
しかし、資料管理者として1点気になる点があります。それは、この土器がいつ博物館の資料として近江氏から寄贈されたのか、という点です。Gubler(1932)、犀川会編(1933)では、この土器はすでに博物館の所蔵資料として扱われていますが、博物館に残されている物品監守証書に近江正一氏から寄贈された土器(海馬注口)は、1934年の寄贈となっているのです。近江氏から寄贈された考古資料の大部分は1928年に寄贈されたことになっていますが、この1件のみが異なるため、年次記載の誤記という可能性もあります。しかし、1928年の寄贈記録では近江氏の居住地が国後島であるのに対し、1934年では当麻村となっていることから、誤記の可能性は少ないのではないでしょうか。
資料として利用する際の情報混乱はなく、安心して利用することができますが、所蔵資料がどのように構築されてきたのか、という博物館史のテーマとしては興味深い点です。
土器の形状
「近江」の注記
1934年寄贈の記録