個別所蔵資料の課題

 標本や資料情報に誤りや混乱が確認されたものについては台帳に記述し、以降の混乱を回避するようにしていますが、すべての資料に対して検討を行う時間的余裕がありません。誤りや混乱の傾向を紹介し、他の標本を利用する場合の注意喚起を目的としてまとめています。ウインドウ幅を991px以下に狭めると画像が大きく表示されます。 

 この対になる2枚の漁業図は、札幌県が1883年の水産博覧会に出品したものと考えられます。
 小樽高島鰊漁の図は、過去に栗田鉄馬によって描かれたと記載されたこともありますが、制作年代から考えて検討の余地がありました。今回の展示にあわせて調査した結果、黒野雄繁南(錦谷)が札幌県の水産博覧会委員伊藤一隆らと石狩、小樽に漁業図調整のため派遣されていることが確認されました。黒野は絵師であることから、この二つの漁業図の製作者は黒野である可能性が高いと考えられます。

石狩川河口鮭漁漁業図

小樽高島祝津鰊漁漁業図

 北海道大学の前身である札幌農学校卒業生の中でも著名な内村鑑三が卒業後に就職した開拓使において養殖業の研究のために制作したこの標本は様々な媒体で紹介されており、有名なものです。
 水産博覧会展示に関する調査の中で、内村鑑三が制作していたアワビの発生見本が札幌県からの追加出品物となり、漁業図などとともに博覧会で表彰されていたことが確認されました。この見本は博覧会において、博物局(現在の東京国立博物館)から購入の依頼があったようですが札幌県から販売されたものの中には含まれておらず、売り渡されなかったようです。内村鑑三は博覧会直後に札幌県の職を辞していることから、この見本は出品物の複製ではなく実際に出品されたものと推測されます。
 発生見本とセットで制作された始末書(解説)も展示しています。

アワビ発生見本

発生見本始末書(HUNHM15879)

 東京銀座の中村利吉が水産博覧会に出品した各地の釣針見本です。この出品物は博覧会で二等賞を受賞し、水産博覧会第一区出品審査報告においてもこの出品物が図化されて各地の漁業の様子が示されるなど、高い評価を受けました。中村はみすや針店の経営者でしたが、水産伝習所で指導をしたり、漁具に関する著書を出版するなど著名な人物であることからも、この資料は重要なものと考えられます。
 長い保管の過程で劣化が進み、針の欠落が多数ありますが、水産博覧会の展示を構築するにあたり除外できない資料であることから展示しています。今回は海洋漁業の釣針がまとめられたHUNHM33352を展示しています。
 水産博覧会の水産博覧会第一区出品審査報告は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができます。

川釣り用の針がまとめられたHUNHM33351

HUNHM33351の部分拡大

HUNHM33352の部分拡大

 この寒天の見本は、資料に付属する収集地(京都犬甘村)と札幌県が収集していた水産博覧会出品解説(北海道立文書館所蔵)から、名倉宗太郎が出品したものと考えられます。HUNHM35412には「昆布晶、青森県」というラベルも付属していますが、これは札幌県が購入した別の資料に付属していたラベルが保管の過程で誤って付与された可能性が高いことが今回の調査で確認されました。
 また、あわせて展示しているテングサ見本は犬甘村の収集地ラベルとともに「志摩」、「紀伊」などの地名があり、4点それぞれに別の標本番号が与えられていましたが、名倉の解説書に寒天の素材採集地としてこれらの地名が記載されていることから、名倉が出品した1点の資料とみるべきものであると判断されました。

箱形寒天

テングサ見本

違う形状の寒天(HUNHM35413)

 札幌県は、他府県の優良出品物だけでなく県下人民出品物も買い上げて博物館で展示をして、県の水産業を発展させようと考えていました。北海道立文書館の史料の中には、博覧会後に浦河の林重吉出品の昆布刈取鎌と三石の小林重吉出品の昆布取舟模型を預かったことが記載されています。この舟の模型は付属する収集地から小林重吉出品の舟模型と考えられます。林の鎌は現在収蔵資料の中に見出すことはできませんが、札幌県から札幌農学校の博物館(HUNHM)に移管されたことが古い台帳から確認されることから、ある時点までは所蔵していたものと考えられます。
 小林重吉は舟模型とともに昆布と刻昆布工場の図も出品していました。HUNHM33246は、描かれている屋号[ス○]と工場の所在地から、小林出品の図を掛軸に仕立て直したものと考えられます。今回のテーマ展示では各図を拡大したものを展示しています。

昆布刈取舟模型

刻昆布工場図(部分)

刻昆布工場図(部分)

 外壁塗装の劣化と落雪による窓枠などの破損が懸念されていたバチェラー記念館ですが、2019年10月から11月にかけて補修工事が行われました。来年度からは美しい建物をご覧いただくことができます。
 バチェラー記念館は1962年の移築の際に展示室として利用するために一部の窓をなくすなどの処理が行われたことがわかっていますが、もともとの建物の形状は「わが人生の軌跡」(仁多見巌・飯田洋右訳編、北海道出版企画センター)に引用されている1枚の写真のみから推測するほかありませんでした。
 しかし、2018年に寄贈された元職員の所蔵資料に移築前の写真などの関連資料が残されていたことがわかり、バチェラーの帰国後から北海道大学への移築までの間の形状をうかがい知ることができるようになりました。この記録は今後の復元工事などに利用してゆきたいと考えています。

修復工事を終えた記念館

移築直前の様子

当初の煙突が残っていた時期の様子

 ブラキストンが初めて確認したムギマキの標本?
 この標本には、明治期に利用されていたラベルに「十三年十月 札幌」という採集情報があります。
 現在のHUNHMでは、研究者が標本を利用した際にどの標本を利用されたかを記録し、研究結果の再検証をスムーズに実施できるような体制を整えていますが、このような記録は過去20年程度分が保存されているのみです。ブラキストン標本目録の改訂作業中に、ブラキストンはムギマキの存在を「Fauna Japonica」の図から認識していたものの、1881年までは標本をみたことがなかったのですが、札幌で採集された標本がHUNHMに所蔵されていることを見つけた、とBirds of Japanの1882年版に記載されていることに気づきました。おそらくは、このHUNHM39875標本がブラキストンが見つけた標本なのでしょう。ブラキストンは日本各地の博物館の標本を調査していましたので、彼が初めて確認したこの標本は日本の博物館で最初に収蔵されたムギマキの標本だったのかもしれません。
 所蔵標本が過去にどのような研究に利用され、どのような価値を与えられたのか、再確認してゆくことが求められています。

標本

ラベル

Birds of Japan1882の記載

 この標本には「札幌農学校所属博物館」のラベルが付属しており、「25-2-3」という採集日が記載されています。ラベルの「1026號」に対応する明治20年代に運用が開始された標本台帳にも25年2月3日という記述があるのみで、これが明治25年であるという明確な記述はありません。ただし、この台帳ではおおむね採集順に登録されていること、「札幌農学校」のラベルが付属していることから、明治25年の採集標本であることは疑いありません。
 しかし、標本に付属する現行標本番号が印字されているラベルでは「Feb. 3. 1891」という採集日が記載されています。これは、旧ラベルの「25」が丁寧に書かれていないため、現行ラベルへの転記時に「25」を誤読し「24=明治24=1891」と解釈したためと推測されますが、明らかに誤りです。また、旧ラベルの裏面には「2015」という標本番号の記載があります。この番号に対応する標本台帳と標本カードは大正期後半に運用が開始されたものと推測していますが、この台帳ではこの標本の採集日を「大正3年2月25日」と誤って登録していることに注意が必要です。昭和40年代にまとめられた標本台帳でも、「2015」の番号を持つシジュウカラ標本の採集日を同様に「大正3年2月25日」としており、これも誤りです。加えて、この台帳は標本をチェックして記述するのではなく、明治20年代の標本台帳と大正末期の標本台帳を単純に転記して作成されたものとみられ、標本番号が重複する明治20年代の台帳の記述に対しては、標本番号に10000を加えた番号で管理していました。このため、台帳には「2015」の番号を持つシジュウカラ(大正3年2月25日採集)と「11026」の番号を持つシジュウカラ(25-2-3採集)が記載されています。この二つのレコードは同一の標本の情報であることから、台帳の記述のみをもって別々の採集記録とすることはできません。
 採集と同時期に運用されていた台帳の情報ではなく、遡及して記載している台帳や標本カードの情報を利用する際は、注意が必要です。

標本

現行ラベルと旧ラベル

大正期の標本カード

 この注口土器は喜田貞吉氏が1928年に報告して以来、様々な媒体で引用・紹介されている有名な土器です。喜田の報告は発見者である国後島作喜小学校長の近江正一氏からの情報に基づいていて、東沸村字ポンキナシリ、作喜小学校裏の崖上で1928年7月7日に発見されたという情報が記載されています。博物場で行われたと考えられる土器への注記には「近江」「P23」とあるのみですが、発見者による情報に基づく採集情報で登録されています。この土器を引用する報告でもおおむね上述の採集情報が記載されており、資料情報そのものについては混乱はみられません。
 しかし、資料管理者として1点気になる点があります。それは、この土器がいつ博物館の資料として近江氏から寄贈されたのか、という点です。Gubler(1932)、犀川会編(1933)では、この土器はすでに博物館の所蔵資料として扱われていますが、博物館に残されている物品監守証書に近江正一氏から寄贈された土器(海馬注口)は、1934年の寄贈となっているのです。近江氏から寄贈された考古資料の大部分は1928年に寄贈されたことになっていますが、この1件のみが異なるため、年次記載の誤記という可能性もあります。しかし、1928年の寄贈記録では近江氏の居住地が国後島であるのに対し、1934年では当麻村となっていることから、誤記の可能性は少ないのではないでしょうか。
 資料として利用する際の情報混乱はなく、安心して利用することができますが、所蔵資料がどのように構築されてきたのか、という博物館史のテーマとしては興味深い点です。

土器の形状

「近江」の注記

1934年寄贈の記録