北海道大学農学部博物館には、「船越長善」の筆とされる作品が計4点i 所蔵されている。
岩手県出身の画家・船越長善は、明治初期に北海道に渡り、開拓使の役人として測量地図製作や記録担当を務め、生涯を終えた。伝記史料は少なく、各作品の制作経緯について語る資料もほとんどないのが現状である。本稿では、主に北海道立文書館に残る開拓使職員履歴iiをもとに、長善という人物とその絵画制作の背景の一端について述べてみたい。
1.北海道渡航以前iii
長善は、通称善四郎、月江と号した。天保元年(1830)12月に、出羽国鹿角郡の人青山金左衛門の次男として生まれ、のちに盛岡藩士船越某の養子となったと伝えられる。画は、南部藩のお抱え絵師であった川口月嶺(1810-1871)に学んでいる。月嶺は、江戸の鈴木南嶺を師とする四条派の画家で、幕末期には秋田の平福穂庵や越後の柴田是真らと共に名を知られていた。特に花鳥や山水画を得意としたという。
来道以前の長善の経歴については、蔵奉行・山奉行の下吏として、山林事業にあたり、測量に長じていたということ以外はわかっていない。その意味で、慶応3年(1867)作の「北郡田名部山水真景画譜」<203>は、当時の地理・風俗はもちろん、長善の東北地方での足跡を語る稀少な遺稿である。後に述べる「札幌近郊の墨絵」2巻とともに、寄贈前は子孫にあたる札幌在住の藤田梧楼氏が所蔵していた。
冒頭に「慶応三年中北郡田名部出張於同所實地眞寫」とあり、測量調査か何かで陸奥(青森県)を旅した折に写生した墨画(一部淡彩)計62図を収録する。田名部、大畑、尻屋崎…など下北半島全域の村落、河川、山野を隈なくスケッチしている。大間から津軽海峡をはさんで箱館を間近に望む図もあり、のちの北海道との結びつきを予感させて面白い。全体に写実と南画の技法を併せ持った、いわゆる四条派風の作品である。仕事柄か、海岸線や稜線は付立法を駆使しながら殊に丹念に描いている。地形を強調する鳥瞰図がほとんどだが、中には餅をつく人々や海苔を採る海女など生活風俗も。出張の折々に個人的関心事を描き留めるスタイルは後の写生画とも共通する。
2.新天地開拓
やがて明治5年(1872)7月2日、長善は岩手県租税課検地御用掛を申し付けられる。ところが、そのわずか半月後の18日に、「北海道開墾見込有之」ivという理由から依願退職。翌日には岩手を出発し、8月札幌到着。翌6年(1873)2月12日、開拓使当分お抱えの地図掛を拝命している。
北海道に渡った直接のきっかけは明らかではない。だが、師匠であった川口月嶺の子・月村がそれ以前の明治4年から5年にかけて開拓使に雇われ、札幌や有珠新道の測量製図に従事していた関係から、おそらく長善にも声がかかったものと考えられる。ちなみに、長善よりかなり遅れて明治11年には、同じく月嶺門下にいた沢田雪渓(雪嶺か)もそれまで勤めていた東京府を辞め、北海道に移住している。
「明治六年札幌市街之真景」<206>は、開拓初期の一つの象徴として多くの刊行物に取上げられてきた図である。碁盤の目に整然と区画された街並みを中心に、周囲に残る原始林や遠くにそびえる山並みまでが、南画風の技法で詳細に描かれている。『新北海道史 第三巻』(北海道刊・1971)の口絵解説には、「その年二月地図掛を拝命した船越長善は、その三月計画された市街地図をつくり、『北海道石狩札幌地形見取図』と題して木版で刊行したが、さらに絹布に彩筆を振るってこの詳細な鳥瞰図を残した」vとある。同様に、他の刊行物でもすべて「船越長善作」と紹介されている。しかし、実際の作品には落款がない上、彼の写生図などと比べると、全体に筆運びが硬く、単調な印象を受ける。今後、「北海道石狩州札幌地形見取図」(北大北方資料室蔵)や「明治六年十一月札幌附近之図」vi(札幌区史所収)など同時期の作との比較検討や関連史料の調査等により、その制作過程を再検証した上で、長善の真筆か否かの慎重な判断が求められる。
さて、移住地や建設道路の測量・製図など、全国に先駆けて北海道の測量事業が本格化するのに伴い、長善は多忙を極めていく。記録によると、明治6年4月の等外二等出仕から始まり、明治9年(1876)までには開拓使十三等、すなわち判任官という指導的立場へと着々と昇進。この間、冬場の出張や遠隔地での作業、事業が増大した折の「格別勉励vii」な働きぶりが評価され、幾度となく慰労金を受け取っている。
「札幌近郊の墨絵」上下2巻<204> <205>は、明治6-8年の出張の際に描かれた写生画集である。日付や場所の順序もバラバラに各28図ずつまとめて表装されている。札幌をはじめ、石狩川流域の空知・夕張・樺戸各郡の風景画が中心だが、「札幌六景」と題した市街地の風俗図や、鮭を捕ったり、熊を飼うアイヌ民族を写した図もみえる。下巻には、明治7年2月8日に噴火した樽前山のスケッチも含まれている。墨画の中に突如、真っ赤な炎が出現する情景には静かな迫力が漂う。実際、長善は噴火の翌日に至急の命令を受け、現地に出張。報告書とともに、彼の作品の中では著名な「胆振国勇払郡樽前岳憤火之図」(北大北方資料室蔵)を描き上げ提出している。このスケッチはその下書きの一枚かもしれない。
尚、両巻に収録されている何枚かの図の右下には「船」の朱文円印が押されている。今回参照した履歴録中、『明治七年十月 官員明細表』(北海道立文書館蔵)の長善の履歴短冊の下隅にやはりこれと同じ印を確認(写真1)。他の履歴録や、長善筆「士族開墾の図」(札幌市手稲記念館蔵)の落款(写真2)等と筆跡・印章を比較照合した結果、この短冊は長善の直筆とみて間違いないと思う。
3.探検の果てに
明治10年(1877)、新官職制度導入に伴い、長善は開拓八等属を拝命。本庁民事局地理課勤務となる。明治14年(1881)2月に51歳で死去する前年まで、変ることなく未開地への出張・踏査を続けた。文字通り、探検の連続の一生だったといえるだろう。
生前の長善は、背が高く大柄で、酒を好み、さっぱりとした、欲のない性格だったと伝えられる。一方、綿密な写生画や、細字の丁寧な筆跡からは、穏やかで繊細な神経を持った人物像がうかがえる。「北郡田名部山水真景画譜」の最後にさりげなく添えられた福寿草の鉢の絵などはその証左だろう。
明治初期、北海道開拓の主力として活躍したのは、戊辰戦争で苦渋をなめた東北の士族たちであり、岩手出身の長善もまた、過酷な状況に耐えうるだけの「士族」としてのプライド意識を持ち続けた人だったと推察する。
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写真1『明治七年十月官員明細表』部分
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写真2長善筆「士族開墾の図」部分
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注
i 図版番号<203> <204> <205> <206>。
ii 開拓使職員となってからの長善の経歴は、北海道立文書館所蔵の以下の文書中に掲載されているものを参考とした(順不同)。『明治十三年自一月 免職物故並他官、轉任ノ分 履歴書綴』(道立文書館所蔵簿書番号3809号)、『明治拾三年 履歴書』(同3810号)、『明治十五年改 判任官履歴録』(同7237号)、『奏任官以下履歴調』(同10499号)、『明治九年三月改 判任官履歴録』(同1917号)、『明治六年二月 諸官員其外明細牒』(同881号)、『明治十四年六月 履歴短冊』(同5100号)、『明治七年十月 官員明細表』(同1177号)。調査にご協力いただいた道立文書館職員の方々に感謝申し上げる。
iii 長善の出生や来道以前の履歴については、橘文七編『北海道史人名辞典』(北海道庁史料編集所内・1957)や河野常吉『北海道史人名字彙 下』(北海道出版企画センター・1979)等に短文で紹介されている。いずれも内容はもちろん、語順もほぼ同じであることから、某かの原本があったと考えられるが、典拠は明らかではない。しかし、本稿ではそれらの記述の一部を参考にしたことを断っておく。
iv 注ii『明治六年二月 諸官員其外明細牒』中の記述より。
v この解説は、作品制作の経緯を示唆していて興味深いが、残念ながら典拠が不明である。
vi 高倉新一郎『挿画に拾う北海道史』(北海道出版企画センター・1987)175頁で紹介。
vii 注ii『明治十三年自一月 免職物故並他官、轉任ノ分 履歴書綴』中の記述より。
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